2022年10月6日木曜日

「機雷殉難の塔」を訪ねて~湧別機雷爆破事故

機雷殉難の塔の碑文


機雷殉難の塔

塔の前の砂浜


 先日、湧別町の「機雷殉難の塔」を訪ねてきました。

 ここでかつて、言葉にもできないほどの大惨事が起こったことなど、まったく想像すらできない穏やかな浜風が吹いていました。

 この事件を知ったのは40年以上も前です。その時私は、紋別市で『モペット』というタウン誌を作っていました。

 1982年、8月号の特集記事、「紋別今昔~終戦記念特別企画」の取材の中で、貴重な写真と遭遇しました。

 それをもとに、「空前の大惨事、湧別機雷爆発事故~故 岸本増太郎氏の記録より」と題した特集記事を執筆しました。

 40年も前の文章ですが、その記事を紹介します。


『ここに2枚の古い写真がある。今からちょうど40年前の昭和17年5月26日、下湧別村(現湧別町)サロマ湖畔ポント浜で起こった機雷爆発事故の模様を知らせる貴重な写真である。

 この写真の持ち主である岸本哲也さん(贈答品店経営)の話によると、当時警防団員の一員として紋別から派遣された、父故増太郎氏が所有していたものだという。

 さらに、その写真の裏には、細かい文字でびっしりと当時の惨劇の様子が詳しく書かれている。

 その貴重な資料をもとに、死傷者二百数十名を出した湧別村機雷爆発事件について探ってみたい。

タウン誌「モペット」1982年8月号より


岸本増太郎氏の写真

 <昭和十七年五月二十六日午前十一時、下湧別市街を距る一里の海岸に漂着するなつめ型機械水雷二個のうち一個、今日爆破さすべく、これが見物人の取り締まり上警防団後援に出動。紋別より十名。>と、まず記録されている。

 その日から、約一週間前の5月19日、サロマ湖内に浮遊している機雷が発見され、続いてオホーツク海沖合で、漁師たちによって二個目の機雷が発見された。

 この知らせを受けた下湧別巡査部長派出所はもちろん、管轄の遠軽警察署は一気に色めき立った。

 戦時下とはいえ、オホーツクの一寒村に、戦争中だという緊迫した空気はまだなかった。

 それよりも、まず村の人たちは生きることに懸命だった。このような村にふってわいたような大事件に、うろたえるのも無理はなかった。

 二つの機雷は、下湧別市街から約4キロメートル離れたポント浜まで曳航し、これを点検した結果、まさに「なつめ型震動式機雷」と認められた。

 しかし、どこの国のものなのか、なぜこの地に漂着したのかは不明のままだった。

 いかに処理するか。遠軽署では議論が続けられた。その結果、二つの機雷はポント浜で爆破することとし、処理にあたっては国防訓練として位置づけ、実物処理の状況を関係者および一般に示して戦意高揚の絶好の機会とするため、いくつかの事項が決定された。

一、爆破は生田原鉱山の火薬専門家によってダイナマイトを使用。

一、警防団は湧別分団、芭露分団、上湧別分団を全員出動させる。

一、近隣町村の警防団には参加見学を認める。(準出動)

一、湧別をはじめ、近隣各町村に見学を勧める。(青年学校は見学必須)

一、見学者のため、鉄道・馬車の臨時便増発を要請。

 そして日時を、海軍記念日の前日、5月26日午後1時と決定した。

 こうして下湧別村に漂着した国籍不明の二つの機雷は、軍国主義の浸透のための舞台装置として利用されることになったのである。

 翌日から回覧板が町内会、隣組に回され、機雷漂着事件は一挙に村の話題となった。

 紋別町役場を通じて、紋別警防団にも通達が届けられた。

 増太郎さんの記録によると、その時紋別から出動したのは10名である。

 爆破当日ー。

 当時25歳だった岸本哲也さんは「その日は、とにかく暑い日だったですよ。フェーン現象というんでしょうか、むっとする暑さでした」と、40年前を振り返る。

 その暑さの中、地元下湧別をはじめ、近隣町村から警防団員、青年学校生徒、一般見学者など約一千名が現地に参集した。弁当、酒を持参の、まさにお祭り騒ぎだった。

 現場は一帯の草原で、付近に人家はなく、遠軽警察署長警部千葉豊指揮のもとに作業が開始された。

 爆発の瞬間を、増太郎さんはこう記録している。

<爆発は当日高温なりし為、現場(漂着)より約十八・九間をころがし、爆破の現場に至りたる時、突然大音響と共に破裂したるものなり>

『北海道警察史』によれば、

「二つの機雷は、当初五十メートルくらい離れたところに陸揚げしてあったが、一個を爆破する際その爆風・震動によって他の一個が誘導的に爆破するおそれがあったため、さらに約二十メートルずつ引き離す作業をしていたのである。機雷の一端にロープをしばりつけ、慎重な作業を進めて予定地まで移動することができた。しかし一方の機雷は、少し座りが悪く自然にころがるおそれがあったので、その位置を直すべく十七名が力を合わせてロープを引っ張ったのである。一瞬、機雷が爆発し大音響は付近の山々に反響した。煙が立ち去ったあとの現場には、直径十メートル、深さ三メートルの大穴があき、五〇メートル四方には死傷者二百数十名が折り重なっており、これらの悲鳴とうめき声でさながら地獄絵図を現出している。」

 まさに爆発は、不意の出来事だったのである。

 爆発の瞬間、紋別でも窓ガラスがビーンと鳴ったという。

 増太郎さんは、爆発直後の「地獄絵図」の模様を克明に書き残している。

<遠軽署管下警察署員、警防団員、一般見学者三百四・五十名現場付近の者寸秒の内に死す。

 自分は、爆破現場を去る事、実に十三間の個所にて立ち、望遠鏡にて見てありし為、突然の破裂に第一目鏡に破片を受け、直ちに伏せたるも身体の自由なるを知り、速に立ち上がり逃げるべく目を開けたる時、数十丈の高い土砂を巻き上げ居たり。同時に両足非常に痛しを覚ゆ。我ながら自らの活きて居るを知れり。初めて穴の現場付近迄近寄たるが、一人として生あるものなし。肉片の中よりうごめきあり、手足の動く者もいで、亦遠きに居たる人々の駆け寄たる人も見ありたり。>

 夏、一面に赤いハマナスが咲きみだれるこの砂浜に、その時血の赤い花が咲いたのである。

 増太郎さんはその時、股間に傷をうけた。そして、胸ポケットに小指大の機雷の破片があるのに気がついた。

 たまたま胸ポケットに入れていた財布の金の留め金にあたったものである。まさに、九死に一生を得たのであった。

 この事件は、紋別にもすぐに伝えられ、大さわぎになった。

 岸本哲也さんは、当然父も死んだものと覚悟を決めていたと言う。

 夕方、哲也さんはポンプ車から降りてくる父増太郎さんの姿を見つけた。「びっくりしましたよ。生きているんですから」思わず涙がにじんだという。

 この大惨事は、ほとんど報道されることはなかった。事件の翌日、海軍記念日の「小樽新聞」(道新の前身)には、わずか二段の小さな記事で

『遠軽署長以下七五名即死ー「漂着機雷」爆破の惨事』として報道されたのみである。

 再び、増太郎さんの記録をみよう。

<六月五日、下湧別小学校に於て合同葬儀施行。位牌百七個、道庁長官外道内各官公職参列。戦時災害法に依り遺族を取り扱い、重軽傷者にはそれぞれ町村より手当見舞す。自分にも二十円也役場より見舞金下附ありしが、其他の見舞金と共に之を銃後後援会に寄付す。重症者は其の九割までは、其後に死亡せり>

 それから二十四年後、昭和四十一年一月、岸本増太郎さんは、これらの貴重な記録を残して亡くなった。享年七十六歳であった。

 事故の翌年、ポント浜の現場に慰霊碑がたてられ、終戦後湧別神社に移された。

 今は、ポント浜に群生していたハマナスはもうない。砂浜だけが延々と続くだけである。

 四十年前のある日、この砂浜に突然狂ったように「赤い花弁」が咲いたことも、もはや遠い記憶の中に残るのみである。

(協力/岸本哲也氏、市史編纂室、湧別町役場。参照/「網走市史」「湧別町史」「北海道警察史」「汝はサロマ湖にて戦士せり」(宇治芳雄・著)他)』

 

 現在、ポント浜に立っている「機雷殉難の塔」は、爆発より50年にあたり建立されたものです。

 私が訪れたときも、真新しい花束が手向けられていました。

 


 

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