2022年10月20日木曜日

見事な落語でした~小向小学校学芸会

最後の稽古が終わって記念写真

「出来心」を演じる「コムケ亭小陸」こと渡邊陸君


「寿限無」を演じる「コムケ亭智楽」こと古屋智貴君
   


 10月5日、小向小学校の学芸会を迎えました。朝から、なんだか気もそぞろ。それもそのはず、二人の弟子?の初舞台が待っているのですから。

 教育委員会から落語の指導をとお願いされ、初めて子どもたちに会ったのが9月15日。それから4回、小向小学校に通い稽古をつけてきました。

 はじめは、言葉も声も出ない状況から、一つ一つ課題を見つけて、一つ一つクリアしながら、最後にはもう立派に噺をこなせるまでに成長しました。

 その前向きさには、こっちが感心させられました。

 学芸会の会場には保護者をはじめ、地元の人たちや「小向寿クラブ」の方々など約40人が集まりました。

 二人の晴れ舞台です。私も、わくわくドキドキです。

 陸君は、間抜けな泥棒の滑稽話「出来心」。そして、智貴君はおなじみ「寿限無」。

 二人とも、見事な出来でした。会場からも大きな笑いが起き、一安心です。

 きっと、私の稽古だけでなく、家でも一生懸命練習したんだろうな、と思います。

 私自身、貴重な経験になりました。そして、落語って楽しいものだな、とあらためて実感しました。

 子どもたちも、できなかったことが一つ一つできるようになり、演じる楽しさを感じているようでした。

 学芸会が終了し、最後に陸君、智貴君から学校で栽培した長ネギとピーマン、カボチャをプレゼントされました。

 なんだか、名残惜しい気分です。二人にとっても、楽しく忘れがたい経験になってくれたらと思います。


地元新聞にも大きく報道されました



 

 

2022年10月6日木曜日

議員研修で大いに学んで


 9月の28・29日で雄武町のオホーツク温泉ホテル日の出岬で一泊二日の議員研修を行いました。

 メンバーは、遠紋地区の共産党議員の4人。紋別の市議選も無事終わり、ご苦労さん会を兼ねての研修です。

 ここホテル日の出岬は、しんぶん赤旗にも広告を載せていただいており、今年1月に次いで2度目の利用となりました。

 前回1月の研修では「地方財政のいろは」を、今回は
「国保問題のいろは」について学びあいました。

 私が講師になって3時間。去年初当選した遠軽町の戸松町議を中心に、国保のそもそもから都道府県化の狙い、国保会計の予算書の読み方と分析の仕方、国保問題での議会質疑のポイントなど、きわめて実践的な内容で行いました。

 夜は、ホテル自慢の料理が並びます。



 少々、お酒も入って話に花が咲きます。温泉にも入って、久しぶりにゆっくりと。

 翌日は、雄武町の図書館の視察です。





 令和元年にオープンした図書館。桜井係長の案内で見学させていただきました。

 なかなかユニークな図書館です。図書館でもあり、博物館でもあり、美術館である。そんな楽しい空間は広がっています。

 「少しぐらいならおしゃべりしてもかまいません。コーヒーも自由に飲んでください」と桜井さん。

 テラスからはオホーツク海も望めました。

 たっぷりと、学び、味わい、語らい、そして視察の研修となりました。

 

「機雷殉難の塔」を訪ねて~湧別機雷爆破事故

機雷殉難の塔の碑文


機雷殉難の塔

塔の前の砂浜


 先日、湧別町の「機雷殉難の塔」を訪ねてきました。

 ここでかつて、言葉にもできないほどの大惨事が起こったことなど、まったく想像すらできない穏やかな浜風が吹いていました。

 この事件を知ったのは40年以上も前です。その時私は、紋別市で『モペット』というタウン誌を作っていました。

 1982年、8月号の特集記事、「紋別今昔~終戦記念特別企画」の取材の中で、貴重な写真と遭遇しました。

 それをもとに、「空前の大惨事、湧別機雷爆発事故~故 岸本増太郎氏の記録より」と題した特集記事を執筆しました。

 40年も前の文章ですが、その記事を紹介します。


『ここに2枚の古い写真がある。今からちょうど40年前の昭和17年5月26日、下湧別村(現湧別町)サロマ湖畔ポント浜で起こった機雷爆発事故の模様を知らせる貴重な写真である。

 この写真の持ち主である岸本哲也さん(贈答品店経営)の話によると、当時警防団員の一員として紋別から派遣された、父故増太郎氏が所有していたものだという。

 さらに、その写真の裏には、細かい文字でびっしりと当時の惨劇の様子が詳しく書かれている。

 その貴重な資料をもとに、死傷者二百数十名を出した湧別村機雷爆発事件について探ってみたい。

タウン誌「モペット」1982年8月号より


岸本増太郎氏の写真

 <昭和十七年五月二十六日午前十一時、下湧別市街を距る一里の海岸に漂着するなつめ型機械水雷二個のうち一個、今日爆破さすべく、これが見物人の取り締まり上警防団後援に出動。紋別より十名。>と、まず記録されている。

 その日から、約一週間前の5月19日、サロマ湖内に浮遊している機雷が発見され、続いてオホーツク海沖合で、漁師たちによって二個目の機雷が発見された。

 この知らせを受けた下湧別巡査部長派出所はもちろん、管轄の遠軽警察署は一気に色めき立った。

 戦時下とはいえ、オホーツクの一寒村に、戦争中だという緊迫した空気はまだなかった。

 それよりも、まず村の人たちは生きることに懸命だった。このような村にふってわいたような大事件に、うろたえるのも無理はなかった。

 二つの機雷は、下湧別市街から約4キロメートル離れたポント浜まで曳航し、これを点検した結果、まさに「なつめ型震動式機雷」と認められた。

 しかし、どこの国のものなのか、なぜこの地に漂着したのかは不明のままだった。

 いかに処理するか。遠軽署では議論が続けられた。その結果、二つの機雷はポント浜で爆破することとし、処理にあたっては国防訓練として位置づけ、実物処理の状況を関係者および一般に示して戦意高揚の絶好の機会とするため、いくつかの事項が決定された。

一、爆破は生田原鉱山の火薬専門家によってダイナマイトを使用。

一、警防団は湧別分団、芭露分団、上湧別分団を全員出動させる。

一、近隣町村の警防団には参加見学を認める。(準出動)

一、湧別をはじめ、近隣各町村に見学を勧める。(青年学校は見学必須)

一、見学者のため、鉄道・馬車の臨時便増発を要請。

 そして日時を、海軍記念日の前日、5月26日午後1時と決定した。

 こうして下湧別村に漂着した国籍不明の二つの機雷は、軍国主義の浸透のための舞台装置として利用されることになったのである。

 翌日から回覧板が町内会、隣組に回され、機雷漂着事件は一挙に村の話題となった。

 紋別町役場を通じて、紋別警防団にも通達が届けられた。

 増太郎さんの記録によると、その時紋別から出動したのは10名である。

 爆破当日ー。

 当時25歳だった岸本哲也さんは「その日は、とにかく暑い日だったですよ。フェーン現象というんでしょうか、むっとする暑さでした」と、40年前を振り返る。

 その暑さの中、地元下湧別をはじめ、近隣町村から警防団員、青年学校生徒、一般見学者など約一千名が現地に参集した。弁当、酒を持参の、まさにお祭り騒ぎだった。

 現場は一帯の草原で、付近に人家はなく、遠軽警察署長警部千葉豊指揮のもとに作業が開始された。

 爆発の瞬間を、増太郎さんはこう記録している。

<爆発は当日高温なりし為、現場(漂着)より約十八・九間をころがし、爆破の現場に至りたる時、突然大音響と共に破裂したるものなり>

『北海道警察史』によれば、

「二つの機雷は、当初五十メートルくらい離れたところに陸揚げしてあったが、一個を爆破する際その爆風・震動によって他の一個が誘導的に爆破するおそれがあったため、さらに約二十メートルずつ引き離す作業をしていたのである。機雷の一端にロープをしばりつけ、慎重な作業を進めて予定地まで移動することができた。しかし一方の機雷は、少し座りが悪く自然にころがるおそれがあったので、その位置を直すべく十七名が力を合わせてロープを引っ張ったのである。一瞬、機雷が爆発し大音響は付近の山々に反響した。煙が立ち去ったあとの現場には、直径十メートル、深さ三メートルの大穴があき、五〇メートル四方には死傷者二百数十名が折り重なっており、これらの悲鳴とうめき声でさながら地獄絵図を現出している。」

 まさに爆発は、不意の出来事だったのである。

 爆発の瞬間、紋別でも窓ガラスがビーンと鳴ったという。

 増太郎さんは、爆発直後の「地獄絵図」の模様を克明に書き残している。

<遠軽署管下警察署員、警防団員、一般見学者三百四・五十名現場付近の者寸秒の内に死す。

 自分は、爆破現場を去る事、実に十三間の個所にて立ち、望遠鏡にて見てありし為、突然の破裂に第一目鏡に破片を受け、直ちに伏せたるも身体の自由なるを知り、速に立ち上がり逃げるべく目を開けたる時、数十丈の高い土砂を巻き上げ居たり。同時に両足非常に痛しを覚ゆ。我ながら自らの活きて居るを知れり。初めて穴の現場付近迄近寄たるが、一人として生あるものなし。肉片の中よりうごめきあり、手足の動く者もいで、亦遠きに居たる人々の駆け寄たる人も見ありたり。>

 夏、一面に赤いハマナスが咲きみだれるこの砂浜に、その時血の赤い花が咲いたのである。

 増太郎さんはその時、股間に傷をうけた。そして、胸ポケットに小指大の機雷の破片があるのに気がついた。

 たまたま胸ポケットに入れていた財布の金の留め金にあたったものである。まさに、九死に一生を得たのであった。

 この事件は、紋別にもすぐに伝えられ、大さわぎになった。

 岸本哲也さんは、当然父も死んだものと覚悟を決めていたと言う。

 夕方、哲也さんはポンプ車から降りてくる父増太郎さんの姿を見つけた。「びっくりしましたよ。生きているんですから」思わず涙がにじんだという。

 この大惨事は、ほとんど報道されることはなかった。事件の翌日、海軍記念日の「小樽新聞」(道新の前身)には、わずか二段の小さな記事で

『遠軽署長以下七五名即死ー「漂着機雷」爆破の惨事』として報道されたのみである。

 再び、増太郎さんの記録をみよう。

<六月五日、下湧別小学校に於て合同葬儀施行。位牌百七個、道庁長官外道内各官公職参列。戦時災害法に依り遺族を取り扱い、重軽傷者にはそれぞれ町村より手当見舞す。自分にも二十円也役場より見舞金下附ありしが、其他の見舞金と共に之を銃後後援会に寄付す。重症者は其の九割までは、其後に死亡せり>

 それから二十四年後、昭和四十一年一月、岸本増太郎さんは、これらの貴重な記録を残して亡くなった。享年七十六歳であった。

 事故の翌年、ポント浜の現場に慰霊碑がたてられ、終戦後湧別神社に移された。

 今は、ポント浜に群生していたハマナスはもうない。砂浜だけが延々と続くだけである。

 四十年前のある日、この砂浜に突然狂ったように「赤い花弁」が咲いたことも、もはや遠い記憶の中に残るのみである。

(協力/岸本哲也氏、市史編纂室、湧別町役場。参照/「網走市史」「湧別町史」「北海道警察史」「汝はサロマ湖にて戦士せり」(宇治芳雄・著)他)』

 

 現在、ポント浜に立っている「機雷殉難の塔」は、爆発より50年にあたり建立されたものです。

 私が訪れたときも、真新しい花束が手向けられていました。

 


 

2022年10月4日火曜日

私が落語の師匠に?!




 9月議会も終わった15日、小向小学校にお邪魔しました。実は私、重大な任務を受けての訪問なのです。

 なんと、落語の師匠というお役目を仰せつかったのです。

 この日、弟子となる小向小学校の児童二人に初めて会うことになっていました。

 話は6月にさかのぼります。市教育委員会生涯学習課からある相談を受けました。小向小学校の児童に落語を教えてほしいというのです。なんでも二人の児童は落語が大好きで、今年の学芸会に落語を発表したいというのです。

 そこで学校側から落語を教えられる人を紹介してほしいという依頼があり、そこで私に話が回ってきたというわけです。

 市では、学校地域支援事業という取り組みを進めています。子どもたちの知りたい・やってみたいに応え、地域の大人が先生になって授業するというもの。私への依頼も、この事業の一環というわけです。

 確かに落語は好きでたくさん見てきたし、少しは噺もできるけど、人に教えるとなると…。と、躊躇したものの、子どもたちが落語をやりたいと言っている、学芸会でみんなに見てほしいと言っている、と言われたら、ここは一つ、と引き受けることにしました。

 この日、初めて会った陸君と智貴君。少々緊張気味です。
早速、私が先生となって2時限の授業の開始です。

 1時限目は「落語のいろは」。落語の所作、落語の「オチ」、キャラクターの演じ分けなどを短く落語を織り交ぜながら楽しくお勉強。

 2時限目はいよいよ落語の実践です。二人ともすでに披露する落語を決めており、内容も入っているとのこと。簡単な高座を作り、出囃子も用意して寄席気分で演じてもらいました。

 もちろん、まだまだ稽古は必要ですが、二人のやる気には感心しました。時々先生方も笑いでも出て、演じる楽しさを感じてくれたと思います。

 私も久しぶりに高座に上がって、お手本風に落語の雰囲気を伝えました。

 「まずは元気にはきはきと。失敗しても気にしない。楽しくやろう。それが落語というものです」と、最後に話し、頑張ろうと約束しあいました。

 それからすでに3度の稽古を重ねています。発表会は15日。だんだんものに近づいています。子どもたちと一緒に、私も楽しんでいます。

 

「対道交渉」で医師派遣を訴える



  8月24日に実施された日本共産党北海道委員会と党道議団による「対道交渉2022」に参加し、市民の要望を訴えてきました。

 まずは広域紋別病院の医師確保についてです。常勤医は現在17名で、コロナ感染拡大のなか、懸命な医療活動を行っています。その医師の増員は、この地域全体の課題です。

 この対道交渉を前に、広域紋別病院にお邪魔し事務局長とも意見交換を行い、実情を把握したうえで臨みました。

 私は、西紋地域のセンター病院としての機能を果たすうえでも医師の確保は緊急な課題だ。道もこの地域を医師少数地域として規定している。としたうえで、特に地域枠医師の派遣について求めました。

 この地域枠の医師の誕生で、地方の医師不足は少しは解消するかと期待していたものの、西紋地域には一人の派遣もありません。

 道の担当者は、医師や医局の要望なども検討し派遣先を決めており、広域紋別病院にも可能性はある、との回答。

 「可能性ならどの病院だってある。地域の現状をよく理解してほしい」と再度要望しました。

 そのほかにも、道立紋別高等看護学院の移転新築にともなう道の安定的で持続医的な運営について。

 知床海難事故で明らかになった救助体制の問題にかかわって、ヘリを搭載できる大型巡視船の紋別港への配備について。

 など、しっかり発言し、訴えてきました。


 

「ダムカード」ゲットの旅


 市議選も終わり、一段落して妻と小旅行に出かけました。

 「ダムカード」というのをご存じでしょうか。それぞれのダムを紹介したカードで、基本的にそのダムに行かなければ手に入らないもので、それを収集しているマニアも数多くいます。

 ということで、今回の旅のテーマはにわか「ダムカード」マニアになってのダム巡りとなりました。

 最初に訪れたのは、沼田町にある「沼田ダム」。ダム手前にのほろしん温泉にある「炭鉱資料館」にお邪魔して初めて知りました。この町にかつて炭鉱がいくつもあり、にぎわっていたこと。その一つが今、ダム湖の下に沈んでいること。

 ダム展望台から望むホロピリ湖。静かな湖面を見ていると、なんだかジーンとしてきます。

 次は、小平町にある「小平ダム」。1992年に完成したダムです。ここの特徴はなんといっても道内最長といわれる湖上橋です。橋が苦手な私には、少々緊張しながら通り抜けました。

 次に訪れたのは幌加内町の「雨竜ダム」。国内最大の人造湖・朱鞠内湖をつくったダムです。ここではダムカードだけではなく、もう一つ目的がありました。

 戦時下、ダム建設に従事し命を落とした「強制労働犠牲者」の歴史を知ることでした。当時、3000人に及ぶ朝鮮人労働者が強制的に動員され、過酷な労働環境のもと多くの犠牲者を出しました。近年でも、犠牲者の遺骨が多数出土し、その犠牲を悼み民族の和解と友好を願う取り組みが行われています。

 雪で倒壊した「笹の墓標」と呼ばれる資料館の再生事業も進んでいます。歴史を風化させず、未来につなげることの大切さを実感しました。

 最後は下川町の「サンルダム」。2019年に完成したばかりのダムです。

 このダムは私にとっても印象深いダムで、共産党として建設反対を訴えてきたダムです。その必要性も希薄であり、自然環境への影響も大きく、まさに巨大公共事業でしかないと。実際、当初530億円程度の工事費が600億円近くにまで膨張しました。その日のサンルダムは、静かにたたずんでいました。

 岩尾内ダムにも足を延ばしたかったのですが、さすがに疲れて断念。

 「ダムカード」ゲットの旅。意外と奥が深いことを知りました。はまるかもしれません。