とっかりセンターでアザラシに触れ、流氷科学センターで流氷を体験し、昼食はラーメンを味わい、昼からは流氷公園で思いっきり遊びまわりました。
とは言え、私は仕事で参加できませんでした。後から聞いた話では、流氷公園が一番気に入ったらしく、広い敷地を思いっきり走りまわっていたそうです。
夜が私の出番なのです。
実は今回のツアーには、子どもたちの引率として「NPO法人南相馬こどものつばさ」の代表、西道典さんが同行してくれていました。
代表じきじき紋別に来てくれることは初めて。そこで、せっかくの機会なので、西さんに現在の南相馬市の現状を話していただこうということになったのです。
そしてこの夜、西さんの話を聞く会を紋別セントラルホテルで開催することになりました。その会の司会を私が努めることになったのです。
20人ほどの市民が集まってくれました。
最初に、紋別の「南相馬の子どもたちを招く会」の代表、桒原務緒さんがあいさつ。これまでの取り組みと経過を報告しました。放射能の汚染におびえる子どもたちを少しでも解放したい。そんな気持ちで始めたこの企画も今年で3年目。喜ぶ子どもたちの笑顔がうれしい、と話しました。
次いで西代表。実は西さんは、南相馬市の男山八幡神社の宮司さんなのです。もちろんあの日、神社も大きく地震の被害をうけました。
その時、西さんはPTAの会長をしていました。放射能の被害は明らかになるにつれ、子どもたちはいつも長袖の服で、外に出られない状況になりました。
その時、支援に来ていた鎌田豊医師の助言で、子どもたちを一か月でも、一週間でも、二日間でも、この地から遠ざけることの重要性を知ったと言います。
そこで立ち上げたのが「南相馬こどものつばさ」です。全国に、子どもたちの受け入れを呼びかけ、その集約と運営、手配を一手に引き受けてきました。
震災の翌年には、ひと夏で1000人の子どもたちが全国に出かけました。
西さんは言います。今でも、子どもたちの心のストレスは大きいと。あの日までは、普通に行っていた海にはもう近づけない。普通に駆けまわっていた裏山には登れない。普通に釣りをしていた川には入れない。
いつ帰れるのかわからない仮設住宅での生活、親子がバラバラになってしまった生活、住む場所も、親の仕事も変わり不安の中での生活。それらが、子どもたちの心を痛めている。
だからこそ、このような取り組みがまだまだ必要であり、受け入れてくれたみなさんに感謝したい。
子どもたちには、そんな大人たちの背中を見てほしいと思っている。そして、いろんな暮らしがあることを、いろんな仕事があることを知ってほしいと思っている。この経験を、これからの糧にしてほしいと思っている。と語りました。
私も2年前、南相馬市に行ってきました。いまだ、放射能の汚染で帰れない小高地区にも行ってきました。津波で壊れた家が、手つかずでそのままでした。ショックでした。
仮設のプレハブ校舎の小学校にも、胸が痛みました。
その現実は、基本的に変わっていません。
あれから4年。だんだん被災地の現状は忘れられ、後回しにされているような気がします。
何が、新国立競技場に2500億円なのか、何が「戦争法案」なのか、何が川内原発再稼働なのか、何が辺野古新基地なのか。今、急ぐべきことは、はっきりしている。
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