迫りくる津波の中で「6メートルの津波が来ます。急いで避難してください」-このアナウンスが繰り返し流れていた映像が脳裏に浮かびます。はらはらと小雪が舞うあの日の映像が-
遠藤未希さん。町の防災担当職員として最後まで避難を呼びかけ続けました。その「防災対策庁舎」が、そのまま残っています。
当時、30人いた職員は、遠藤さんを含め20人が亡くなりました。
今も祭壇が設けられ、花束が絶えません。骨組みだけになった建物を見上げると、改めて津波の恐怖を感じます。
しばらく、ただその場に立ち尽くしました。
この建物は、いったん解体することを決めました。しかし11月、国が遺構保存に財政支援をする方針を示してからは、解体を一時凍結しています。
骨組みだけになっても、いやそれだからこそ、津波の姿を事実を持って私たちに伝えています。
「もう見たくない」という市民の声も理解できます。同時に、津波を風化させない、風化させたくない、という思いも日増しに強まっているのではないかと思います。
震災遺構は、確実に「あの日」を伝えています。
小高い丘の上にある志津川小学校に上りました。あの日、多くの人たちが避難した場所であり、避難所となった場所です。今でも、仮設住宅が建っています。
そこに一枚の写真が飾ってあります。そこから見た、かつての南三陸町、3・11前の志津川の風景です。
下の写真が私が撮った今の志津川です。
かつての緑豊かな南三陸の街が、とてもまぶしく感じられました。
今回の被災地の旅は、まだまだ多くの人に出会うことができ、多くのお話をうかがうことができました。
南相馬市では、誰もが汚染水がコントロールされているとは思っていませんでした。
南三陸町では、プレハブながら商店街が元気に営業を再開していました。
でも現実は簡単ではありません。猪又さんは言います。「振り返れば悲しみばかり。前を向いても先が見えない。ただ今を精一杯生きるだけ。毎日、その繰り返しですよ」と-
まさに駆け足の旅でしたが、私の心は今も多くの人たちの言葉と忘れがたい光景であふれています。いや、あふれ出しています。
私に何ができるのか。この経験をどう生かすのか。これが私の宿題です。
それが、忙しい中、快く対応してくれた被災地の皆さんへの恩返しです。
帰りのバスの中から、三陸海岸の美しく、穏やかな光景が果てしなく広がって見えました。
0 件のコメント:
コメントを投稿