「南三陸のバス停といっても何もありませんよ」と事前に聞いてはいたものの、確かにそのバス停はただの道路ぶち。本当に、何もありません。見渡す限り荒涼とした土地が広がるだけです。
ここがバス停です。
でも、ここがかつての街の中心地。バス停は、そのにぎやかな商店街の真ん中にあったのです。
信じがたい思いで、胸がつぶされる思いでタクシーに乗り、訪問先である南三陸町ボランティアセンターに向かいました。
そこで、猪又隆弘事務局長にお話をうかがいました。
最初に見せられたのは、震災の模様や当時の状況、復旧・復興の現状などをまとめたⅤTRです。その内容も強烈でしたが、津波が襲うシーンのバックに流れていた平原綾香さんが歌う「ジュピター」が極めて印象的で、いまでもこの歌とともにあの光景が浮かび上がります。
平成23年3月11日午後2時46分に発生した地震は、約3・40分後、18~9メートルの大津波となって街を襲いました。
特に役場や病院、商店街があった中心地・志津川地区は壊滅的な被害を受けました。
死者566名、行方不明者226名、被害を受けた建築物は7割に及び、うち住宅被害は3311戸に達しました。
電気も水も食料も通信手段も何もない中、救助・救援・避難が始まりました。
その時、猪又さんは初めて分かったと言います。これまでの防災マニュアルは、まったく役に立たないことを。
それでも、全国から多くのボランティアが駆け付けてくれました。その中で、スキルを持ったボランティアもおり、猪又さんの片腕となって長期にわたり奮闘してくれた人もいたと言います。
現在までのボランティアの数は12万人。その日も、ボランティアセンターでは、ボランティアの受け付けをしていました。
町の職員だった猪又さんの奥さんは、いまでも行方不明のままです。猪又さんもあの日、多くのお年寄りの命を守るために津波の恐怖と闘った一人です。
「あの時、人を助けようとして多くの命が奪われました。使命感を捨てることです。何より自分の命を守ることです」
猪又さんの言葉に、胸がいっぱいになりました。
続いて訪問したのは、南三陸町の地域包括支援センターです。
ここには、かつて紋別市にあった道都大学の卒業生が勤務しています。その彼と会うことも、今回の訪問の目的でもありました。あの日、その彼と連絡が取れず、心配したことを思い出します。
このセンターは、高齢者などの介護支援を仕事にしており、震災時は避難所での高齢者など弱者の支援に責任を負った部署でもあります。
高橋昌子主任から、当時の避難所の模様と運営、課題などリアルなお話をうかがうことができました。
医療機関がすべて被災し、寒さと暗闇と空腹と余震の中で、救護活動が続きました。まさに壮絶な闘いだったといいます。
そこで感じたのは、人・地域の力、ネットワークの強さだったと言います。
「日頃のネットワークが非常時の生きる力になるんです。それが知恵を生み、生きる励ましになるんです。そのために、日頃から人と地域づくりが大切だと実感しています」
実践に裏打ちされた言葉は重いものがありました。
地域包括支援センターが入っている南三陸町役場です。これも仮設の庁舎です。
今回お話をうかがった猪又さんも、高橋さんも、今では全国から講演を頼まれる存在です。現場の姿と真実を、全国に伝えています。
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